このページでは、ノジコの会と道心坂に関する、様々なことがらを保管しておきます。
■ノジコの会の歩み(活動記録)
ノジコの会は、2000年に設立以来さまざまな活動を行ってきました。
その歩みの一つひとつは小さなものですが、その積み重ねが、いずれ九仞(きゅうじん)の功を成すものではないかと思います。
読みやすい概要版も考えましたが、後々、もしかして知りたいことがあるかもしれないと思い、記録として残っているものはすべて掲げておくことにしました。
なお、人数等記録に残されていないものもありますが、ご容赦ください。
■『三条市における巨樹・巨木の調査』
ノジコの会が平成15年(2003)から翌16年(2004)にかけて調査した、旧三条市内の巨樹・巨木をまとめたものです。平成19年(2007)に簡易製本し、希望者に頒布しました。
平成25年(2013)には旧下田村の巨樹・巨木の一部も調査しはじめましたが(7か所27本)、その後の調査を行うことができないまま現在に至っています。
この間、旧三条市で調査確認した保内地区の小布勢神社の杉や旧下田村・大浦地区の升箕神社の杉など、多くの巨樹・巨木が伐り倒されたりしています。
調査をすること、記録を残すことの大切さ、そして先人から受けついだ資産をだれがどう守っていくのかというむずかしい課題を、関係者とともに考えていかなければならないことを改めて思い知らされます。
■『道心坂オオヤマザクラ保全再生活動10周年記念誌』
ノジコの会が道心坂のオオヤマザクラ保全再生活動を始めて10周年になることから、平成24年度(2012)に記念誌が企画制作されました。
企画した関根前会長や寄稿くださった方々の文章、また資料として掲載された活動の一つひとつから、会員を始め、道心坂のオオヤマザクラを見守ってくださる方々の熱い思いが文面からにじみ出ています。
資料として掲げられた「ノジコの会の歩み―資料編-」には、内容確認が十分でないところや誤植等もありますが、当時のまま掲載します。
■「壬寅随筆~下田の道志るべ~」
「壬寅(じんいん)」随筆は、幕末の地理歴史学者・小泉蒼軒(そうけん)(1797〈寛政9〉~1873〈明治6〉)が書き表した1842年に県内を歩いたときの紀行文で、『小泉蒼軒日録』に収められています。
『小泉蒼軒日録』は40年間にわたって幕末の変動期を通して郷土とともに生きた日記集で、当時の越後を知るうえでたいへん貴重な資料とされています。
小泉蒼軒は、江戸時代中後期の測量家・小泉其明の長男。越後新発田藩領今町(現・見附市今町)に生まれました。博覧強記で、父其明にしたがって越後・佐渡をくまなく廻り、父の越佐地図の完成を助けました。父の死後、越後の地理と歴史の集大成『越後志』の完成に生涯を費やして取り組みました。
蒼軒が編述・記録したものは単に越佐の地理に止まらず、歴史・国学・民政・測量学・治水・民俗など多岐にわたる事柄を、恵まれた文才によって、随筆としてまとめています。
その日記は、幕末の変動期に、郷土と密接に生きた貴重な記録として、研究者からも注目を集めています。
ちなみに、父其明は、文政11年(1828)、現在の三条市を中心に発生した大地震の被害状況を実際に歩いて描き、折本型画帖にして残しました。この画帖を「懲震比鑑」(ちょうしんひかん)といい、各地の惨状を彩色画29図にわたって詳細克明に描写しています。 これは地震資料としては他に類をみないものであり、単に三条地震の実態を知るだけでなく地震学全般の考察にも有益な資料となっています。
「壬寅随筆」のなかで、道心坂を記述している個所は「下田の道志るべ」の見出しがつけられています。
(新潟市秋葉区HP「秋葉区ゆかりの先人たち」他より引用)
■「道心坂の怪」
「道心坂」に関して残された伝承民話の一つです。
著者は、外山暦郎(れきろう)。本成寺村金子新田に生まれ、民俗学者・柳田國男と親交がありました。
外山が南蒲原郡本成寺村と大面村で採取したこの話は『越後三条南郷談』(大正15年、郷土研究社発行)としてまとめられました。
「化物のこと」「怪火」「狗獱譚(くひんたん)」「河童」など、不思議な奇談や民話を集めたこの書は娯楽のすくなかった昔の人たちの興味をかきたてたことでしょう。
「道心坂」については、このなかの「化物のこと」という項のなかで「道心坂の怪」という題名で収められています。
■エッセイ「道心坂の春」
三条市在住の詩人・エッセイストの岩淵一也さんが1994(令和6)年4月に、越後ジャーナル誌「続三条歳時記」に長屋門のことを書いたエッセイです。記録や史実として語られる内容ではありませんが、当時の川俣芳衛さんの様子を垣間見ることができる好エッセイです。春風駘蕩を思わせる題名もすてきです。
飄逸洒脱な芳衛さんと岩淵さんのお二人の姿が目にうかぶようです。
■月岡城跡と平林城遺跡
道心坂の林道を上り詰めたところは、かつて要害であった「月岡城」があったとされています。
建設された林道が城跡の中心部を分断したため旧観が失われているとはいうものの、今でも頂上の切り立った曲輪(くるわ)の主廓、東側へゆるやかに下る広い尾根に腰曲輪、西下方に広い腰曲輪、南に延びる尾根は削平されて細長い曲輪を設け、二か所大きく掘り切られ、北方へ延びた尾根にも一か所掘り切りがあるとされています。
『三条市史上巻』にはこの月岡城跡のことが記載されています。
標高や山頂の広さなど、同じ文献のなかで異なる記述がされていますが、そのまま引用しておきます。
令和4年(2022)4月9日、当会主催による「オオヤマザクラ観桜と月岡城跡を探訪する会」を開催しました。講師に山城研究家の鳴海忠夫氏(長岡市在住)を迎え、月岡城と平林地内にあったとされる平林城遺跡(三条射撃場跡地脇の林道を挟んで西側)の解説をしていただきました。平林城についてはこれまでほとんど知られていなかったものです(ただし、遺跡の性格〈弥生時代の高地性集落または中世の山城〉は現時点では明確ではないとのことです)。
その際、参加者に配布した同氏が調査された資料について、掲載の快諾をいただきましたので参考までに掲げておきます(如法寺城、長嶺城の記述は割愛しました)。
なお、月岡城の論文は『三条考古学研究会機関誌第4号』(H22[2010].5.21三条考古学研究会発行)に掲載されたものです。
■道心坂最終処分場(埋立地)
かつてこの場所は深い谷でした。そこを流れる小川は五十嵐川に注ぎこんでいましたから、谷底は五十嵐川の水面近いくらいの高さだったのでしょう。
この道心坂を愛した地元月岡の故西村日子三郎さんは、思い出の記『上葉散る伸びる木の根に書き載せる』のなかで、この地のことを次のように伝えています。
「養護学校を過ぎてしばらく歩くと右側の小高い丘の上に、元県議会議長や三条市長をされた渡辺常世氏の胸像があります。その前にある石の地蔵さんの脇を通ると深い谷へと通じていました。その底に小さな小川があり、冷たいきれいな水がサラサラと流れていました。そこには沢蟹、サンショウ魚などがたくさんいて、子どもたちはそれを捕ったりしてよく遊んだものです」
「戦争が終わり、日本は敗戦で苦しみました。失業者も大勢出たのです。その対策措置として救済事業の一つの仕事が下田へ通じる道路建設となったわけであります。
毎日何十人の人たちが、山を削りトロッコで土を運び、五十嵐川寄りに沢を埋めていったのです。大型機械を使うわけではないので何年もかかって、やがて堤防をかねた高い道路ができました。しかしその反対側は深い谷です。そこで三条市は不燃物の埋立地として使用し、現在も続いております…(後略)」
市環境衛生課が発行した『三条市のごみ処理のあゆみ』によれば、昭和46年(1971)9月1日から埋め立てが開始されました(同月16日付けの三條新聞によれば「9月6日からゴミ投棄が始まった」と報道しています)。
当初そこは「三条市道心坂埋立地」と呼ばれ、埋立面積は15,390㎡。ガラスくず、コンクリートくず、陶器等くず、レンガくず、ブロックくず、灰、研磨くず、瓦くずなどが搬入されました。(同書P.20)
前記三條新聞の記事によると、埋立地を十分活用できるようにと、市はビン類を砕く「クダック」、空き缶を圧縮する「カンヘコ」の2種の機械を110万円で購入。これによって埋立地を長持ちさせようとしていました。これらによる埋め立ての計画期間は5年で、最終的には一帯の観光開発をかねた駐車場にしたいと伝えています。しかしその後も嵩上げ工事が続けられ、沢はどんどん埋められていきました。そして最終的には現在のような高さになったのです。
余談ですが、元市職員でその後市議会議員となられた地元月岡の故金子恒夫さんは「大っぴらには言えないが、最初のころはテレビや冷蔵庫なども捨てられていた」と語っていました。
平成12年(2000)4月に、市は焼却灰・不燃ごみを埋め立てる最終処分場とそこから発生する浸出水処理施設をあわせもつ「三条市一般廃棄物最終処分場(道心坂埋立地)」として建設をしました。このとき発行されたパンフレットによれば、最終処分場敷地面積は30,072㎡、埋立地面積は18,580㎡となっています。
令和2年(2020)4月1日に、下田地区の桑切、中野原、原上、笹巻の4地域にまたがる新たな最終処分場が供用開始したことから、この道心坂での埋め立て事業は幕を閉じることとなりました。なお、廃棄物の適正な処理をおこなうための浸出水の処理業務は現在も行われ続けています。
■道心坂をめぐる3人の男の物語
私たちには忘れてはならないことがあります。伝えていかなければならないことがあります。
それは、過去のこと――。
その「過去」があって、「現在〈present/贈り物〉」があります。
そして「未来」は、
「過去」そして「現在」の延長にあるのです。
けれど「過去」の多くが、伝えられないまま、忘れ去られたまま、歴史のなかに埋もれています。そのことが、「贈り物」である「現在」の「尊さ」を忘れてしまっているのではないでしょうか。
「過去」そして「現在」を正しく知らなければ、新しい明日への力「未来」にはつながりません。
一度埋もれてしまったものを掘り起こし、再び光をあてることには困難が伴います。
だからこそ私たちは今、このちっぽけなHPのなかで、この「道心坂」に魅了された者たちにスポットをあて、その歴史を書き残しておこうと思うのです。
道心坂をめぐる3人の男たち。
彼らは道心坂の、自然を愛し、訪れる人を愛し、そこにいる時間(とき)を愛しました。
サクラを植え、育て、道をつくり、建物を建て、人々を招くために力をそそぎました。
それはきっと「新しい明日への力〈未来〉のために」と想い続けて――。
■西村日子三郎さん
大正11年(1922)、父西村半次、母ヨシの次男として、南蒲原郡槻田村月岡(現三条市)に生まれました。
子どものころは、現在旧最終処分場(道心坂埋立地)となっている、かつては深い谷底を流れていた小川で、沢蟹やサンショウウオなどを捕って遊びました。夏になると、道心坂の下を流れる五十嵐川で家族そろって泳ぎました。
昭和14年(1939)三条市役所に勤務、同17年(1942)憲兵下士官として中国に出征。21年(1946)復員後、22年(1947)退職。農業会(のちの農協)勤務後、兄のケガにより一年ほど農業を手伝ったのち、西村商店の経営をはじめました。当初は日用雑貨や文具を扱い、その後、菓子、食品関係や炭・豆炭などの燃料、やがて秤、たばこ、塩、牛乳販売、プロパンや電化製品なども取り扱う、地域にとってなくてはならない店となりました。
昭和34年(1959)、五十嵐川対岸に見える大崎山に負けまいと、緑と水が豊かな道心坂の自然を「住民の力」でより素晴らしい場所にしていこうと、地元の渡辺虎太郎さんを中心にして「道心坂遊園地発起人」を集めました。翌35年(1960)の「道心坂観光地設立発起人委員会」を経て、36年(1961)、大桃録衛さんを会長に、有志15人ほどで「道心坂観光協会」を設立。約50人からの寄付を集め、有志らとともに道心坂沿いにソメイヨシノ70本を植えました。それを記念し「道心坂小唄」(作詞:西村日子三郎、作曲:伊藤稔)を制作。
その後、市観光協会、ロータリークラブ、ライオンズクラブなどから、休み小屋を3棟寄付してもらい、その一つを現在養護学校が建っている眺めのよい場所へ造るなど、道心坂を市民の憩いの場にしようと尽力しました。
日子三郎さんが昭和58年(1983)に書き残した「道心坂の今と昔」は、穏やかな時間が流れる往時を思い起こす佳文です。
カメラや詩吟、文章を書くことやそれをまとめて冊子にするなど、趣味を広く持つとともに、民生委員を12年勤め、また長年の統計調査功労で平成16年(2004)、瑞宝単光章を受賞しました。
晩年は、総合運動公園やトリムの森の完成、そして、かつて仲間とともに植えた桜の成長をよろこび、また、田川沿いに、安心して歩け、憩える遊歩道の設置を望みました。
最後まで道心坂周辺の自然に想いをいだき、夢をいだき続けた人だったのです。平成18年(2006)没。享年85歳。
■川俣芳衛さん
大正元年(1912)、父川俣由太郎、母イツの長男として、旧南蒲原郡裏館村東裏館(現三条市)に生まれました。
青年期、東京の園芸学校で学んだ後、三条市に帰郷して代用教員を務めました。終戦後、農地解放など農業政策が大きく変わる時代をみて、農業で働く若者たちの道しるべとなるよう「農業新聞」を創刊。資金援助のために、同じ新潟県出身であることを伝手に、東映社長・大川博氏に要請に行ったこともありました。また戦後広まった青年団活動に参加し、団体生活のための宿泊ができる青年道場をつくったりもしました。市議会議員であった父の血をひいたのか、芳衛さんもこうした社会活動・政治に関心があって、昭和24年(1949)、三条市長選挙に出馬したものの落選。志を遂げることはできませんでした。
昭和30年(1955)頃、家族とともに再び上京し、印刷業を営みました。
同37年(1962)頃、50歳になったことを機に長男に印刷業を譲り、自らは不動産取引の資格をとって三条に帰郷し、三ケ町(相生町)に事務所を構えて不動産業を始めました。三条市石上や麻布の住宅団地の分譲などの開発をおこなうなか、道心坂の頂上からの眺めに感動して、観光資源になると確信し、東裏館から転居して、昭和41年(1966)「道心坂観光開発株式会社」を設立。代表取締役となって道心坂の土地開発を始め、ホテルや別荘地の建設、スキー場、キャンプ場など、この一帯を自然公園にすることを目指しました。
全長約4キロの周回林道を設置し、林道沿いには、かつて六日町温泉に泊まった際に美しく咲いていたオオヤマザクラをこの道心坂の地に咲かせて、訪れる人から心ときめく時間(とき)を感じてもらおうと、1000本並木の植樹に取り組みました。
また、昭和53年(1978)頃には、見附市傍所町にあったかつての大庄屋・渋谷家の長屋門を移築したりもしました。日の目は見ませんでしたが、五十嵐川対岸の大崎山と道心坂の間にロープ-ウェイを架けることを考えたり、市へ道心坂条例の住民制定の相談や、じっさいに東京の大手建設業・大成建設に赴いて、道心坂の温泉掘削を相談、計画したこともある、生涯をとおして道心坂への期待と可能性を夢みる、大志をいだき続けた人でした。平成24年(2012)没。享年100歳。
■ 関根依智朗さん
昭和8年(1933)、父関根静策、母ヨキの5人兄弟の長男として、南蒲原郡長沢村高屋敷(現三条市)に生まれました。下田の豊かな自然のなかで育ち、父からは、山菜取りや魚獲りなど生きていくに必要な術をたくさん教わりました。父は曲がったことが大嫌いな性格。関根さんの、酒を飲んでも乱れない、博識で温厚、ものごとの筋を通す、といったようなことは父の遺伝子を確実に引き継いだものと言えます。
加茂農林高校(林業科)卒業後、就職・勤務した先は、青森営林局大槌営林署。町の人たちは純粋で、なによりも遠来の若者に親切でした。そこでの6年8か月の暮らしは、なにものにも代え難い人生経験の期間となり、大槌町は第二の故郷となりました。
働いた営林署で目にした林野庁の国有林、営林署の合理化計画は、森林が荒廃する――。これに反対した日々は、まさに筋の通らないことが大嫌いな父の性格そのままで、関根さんは営林署生活42年の大半を、組合闘争に明け暮れることになりました。
昭和33年(1958)、長岡営林署へ転勤。その後、組合専従を経て長岡営林署に復帰。その後、村松営林署勤務を最後に、平成6年(1994)定年退職。
長い営林署生活で、森林荒廃の役割や実態を見てきて、退職後はその実態を知ってもらうことが「自分の使命」と考え、翌平成7年(1995)「森林環境教室」を開催。主宰者として20年にわたり総合福祉センターでの座学と山行を実践し、森林の役割と大切さ、実態を伝え続けました。
森林教室を続ける中、後年には並行して「森林の会」を立ち上げ、同好の士らとともに登山を楽しみました。
平成12年(2000)、日本カルチャーセンターの「樹医」に認定。
同年(2000)、三条市第4次振興整備計画策定の審議会に、市民公募枠の一員として参加。「市民ワーク・work・さんじょう」の中の「都市環境部会」で〈緑ゆたかなまちづくり〉の重要性について訴えました。
そのことがきっかけで、同年10月「ノジコの会」を結成。初代会長となり、市内公園などの植樹を始め、翌13年(2001)からいよいよ生涯の仕事として、道心坂のオオヤマザクラ並木の再生保全にかかわり始めたのです。
またその年(2001)、燕三条青年会議所主催の「緑のまちづくり」定例会(まち開発委員会)に参加。そのことを機に、三条市・燕市にまたがる須頃郷第2号公園を「市民による公園づくり」として活動を開始。市民参加の計画・実施を経て、平成19年(2007)「NPO法人ネットワークみどり緑」の初代理事長となりました。
平成18年(2006)、市民・事業者・市民団体の賛同者及び行政で構成された「環境パートナーシップさんじょう」のなかで、自ら手を挙げて「道心坂を中心とする山と川に親しむプロジェクト」を計画、そのリーダーとして、道心坂からトリムの森周辺及び田川を含めた里山を中心に、自然環境の保全と再生に取り組みました(現在、トリムの森の入り口脇に、その案内看板が立てられています)。
前述した3つの会も含め、常に三条市の緑の創生・保全のためにリーダーシップを発揮し続けた、三条市で初めてといっていい、都市緑化への想いと実践の先駆けとなった人でした。
私生活においては、上保内の山懐の地に、選び抜いた良質な材木による家を建てて住み、好きな釣りに出かけ、お酒を飲み、会員らとともに山歩きを楽しみました。最後まで、自然、登山、そして森林を愛し続けた人でした。令和2年(2020)没。享年88歳。