どの町にも村にも歴史があります。そしてそこには住む一人一人の物語があります。この道心坂には歴史に名を残すようなできごとや人物の物語もありません。けれど、この坂を多くの人々が歩きました。かつての人はどんな思いでこの坂を歩いたのでしょう。喜びの思いを胸にいだきながら、あるいは悲しみの知らせを届けるために歩いた人もいたでしょう。病人を背負って運んだ人も、花嫁がとおったことも…。歩いた人だけではありません。人々に喜ばれるように尽くした人もいます。
古い手書きの更正図をみると、道心坂の小字名が残されています。月岡側から上り、「平林」の先をゆくと「元寺」や「権現堂」といったかつての歴史を想わせる地名があります。また山頂西側には「櫻山」といった思いがけない名前もみえます。
それらの地名から、かつてのこの地の歴史のロマンや風景を思い起こされることでしょう。
以下の記録は、単なる歴史年表です。無味乾燥な記述です。けれど、そこに書かれている人の思い、そして書かれていない人々の姿を、はるかな時空にのせて思い浮かべながら、私たちはこの坂を守っていこうと思います。
道心坂とノジコの会の歴史表
1394~1428年(応永年間)
下野国(現在の栃木県)の住人・児玉治郎左衛門基信が上杉家をたよって来て居城「月岡城」(道心坂山頂<通称むじな山/どんどん山>)を構える。また月岡山の地名により、姓を月岡と改める。
1716~1736年(享保年間)
当代・治左衛門基綱が山本寺伊予守景良にかかわって訴訟を起こすも、訴訟に不公平があったとして憤怒して、城に火をつけ、一族郎党をまとめて出羽の国へ退去
(以上『温故の栞 19篇』〈明治24年〉より)
1700年代
道心者の常閑さん(墓名、白翁常閑沙弥)が道心坂を切り拓く。
1724年(享保9年)
常閑さん亡くなる。
1838年(天保9年)
見附の傍所町に大庄屋渋谷家の長屋門が建てられる。
1842年(天保12年)
見附の地理学者・小泉蒼軒が道心坂の様子を日誌『小泉蒼軒日録』の『壬寅随筆』に書く。
(その中に道心坂の由来と、常閑さんのお墓の記載がある)
1960年(昭和35年)
西村日子三郎さんが地元の有志15~16人で道心坂観光協会を発足
(休み小屋3棟の建設、桜70本の植樹、道心坂小唄の制作などの活動)
1966年(昭和41年)
川俣芳衛さんが道心坂観光開発株式会社を設立
(その後、4キロにわたる林道を拓き、オオヤマザクラ1000本を植樹する)
1971年(昭和46年)
三条市が「道心坂埋立地」として不燃ごみの埋め立てを開始
1978~79年(昭和53~54年)ごろ
長屋門が道心坂に移築される。
2000年(平成12年)
三条市が道心坂に最終処分場と浸出水処理施設をあわせもつ「一般廃棄物最終処分場(道心坂埋立地)」を建設
関根依智朗さんを会長とする『ノジコの会』が発足
2002年(平成14年)
ノジコの会が道心坂でオオヤマザクラの保全・育成活動を開始
2006年(平成18年)
ノジコの会が新潟県環境賞を受賞
2012年(平成24年)
ノジコの会が環境大臣賞を受賞『地域環境保全功労者表彰』
2013年(平成25年)
ノジコの会が宗村里士(現会長)に引き継がれ、引き続きオオヤマザクラの保全・育成活動を継続
長岡造形大学・平山育男教授が三条市の委託を受けて「三条市歴史的建造物調査」として道心坂林道入り口の脇にある長屋門を調査。『三条市歴史的建造物調査報告書Ⅰ』(2016)としてまとめる。
2016年(平成28年)
ノジコの会が「ソロプチミスト日本財団社会ボランティア賞・新潟-茜クラブ賞」を受賞
ノジコの会が「ソロプチミスト日本財団社会ボランティア賞」を受賞
註:前段は三条・加茂を中心とする地域団体からの受賞、後段は日本を統括する財団からの受賞
2020年(令和2年)
三条市が下田地区桑切に最終処分場を建設したことにより、道心坂埋立地は最終処分場としての役割を終了(ただし、廃棄物の適正な処理を行うための浸出水処理業務は継続。水質検査結果を定期的に公表)
2021年(令和3年)
6月 ノジコの会がHPを開設し、「道心坂」と会の紹介を積極的にひろめ始める。
10月 瓦の一部が崩落しかかっている屋根を修繕するため、「長屋門再生プロジェクトstage1〈屋根瓦修繕〉」として募金活動を開始。
2022年(令和4年)
5月 募金により屋根の修繕工事が完了